誰にだって秘密を持つ権利がある

たまに女風店利用の批判として「自分のパートナーが利用してたらいいのか」的な話があがることがある。

良いとか悪いとか、個人がどう思うかは自由なのでどうでもいいのだが、それと同時に我々は「秘密を持つ権利」があると思う。

いいか悪いかを論じたい人は、一貫性を求める傾向がある。
自分がするなら相手にも許すのか。
これされたから、じゃあこうしても文句言えませんよね。
というように。

そういう議論と全く別のところに、我々には自由に「秘密を持つ権利」があると思う。

自分の人生、全てオープンにして恥ずかしくない状態である必要がないし、後悔のないよう自由に「したいこと」や「しないこと」を決めることがでることこそが大切であり人間の生き方である。

知られない自分が、何をしてても文句言われないことはひとつの権利である。

一方、もしその何かを知ってしまった誰かが傷つくなら、秘密にし続ける努力はしてもいいし、必要な配慮であると思う。
死守せよ、墓場まで、ということもあるだろう。

秘密を持つことに、おもての自分との一貫性を求めるのは野暮である。
利用するお客様も働くキャストも、いつもとは違う自分で誰かに会いに行くから価値がうまれる。

自分の人生に、幾つもの面があっていい。
それが誰にも教えられないようなことでもいいし、それでこそ自分の人生の主人公として生きているという感じがする。

もしそれを、そっと共有できる人がで現れたら、話してもいいけど慎重に。
ひみつの共有は楽しいけれど、相手にもまた別の顔がある。

人に一貫性を求めることは、ほぼできない。
昨日と考えは変わるものと思っておいた方がいい。
自分にもいくつもの面がありるように。

自分らしい人生とは、一本筋の通った、なんて単純なものじゃない。
いくつもの面があり、秘密があり、本当の自分なんて自分でもわからないけど、この人からはこういう人に見えてるかも、なんて考えて楽しめばいい。

誰かの思う自分と
違う自分で会える場所。
それがないなんて、窮屈で退屈だ。

秘密を持つ権利は主張せずとも持っているもの。
誰にだって秘密を持つ権利がある。

FIRST CLASS

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