
はじめに
現代において,「声を上げる」という行為は,かつて以上に複雑な意味とリスクを孕んでいる。かつての社会では,体制に抗う声は村八分や追放という形で制裁を受けた。現代では,技術の進展によって,個人の発言が即座に拡散され,炎上し,社会的制裁へとつながる構造が生まれている。本稿では,現代社会における「声」のあり方を考察し,そこにひそむリスクと希望の可能性を探る。
声を上げるという行為の困難
「人前で大きな声を出す」ことには,誰しも一定の心理的ハードルがある。それは恥や恐れ,否定への不安に起因するものであり,社会の中で目立つことのリスクを反映している。にもかかわらず,声を上げる人が存在するのは,「黙っていられない」ほどの強い想いや怒り,切実さを抱えているからである。しかし現代では,そのような声もまた,「バズ」「インプレッション」といった数値に還元され,コンテンツとして消費される傾向がある。炎上商法や過激な意見が注目を集める一方で,真摯な声や弱い声ほど届きにくく,むしろ叩かれる対象となりやすい。これによって,声を上げることは,もはや〈ただの表明〉ではなく,〈自己リスクをともなう選択〉となっている。
声の交換可能性と消費構造
SNSや動画共有サービスの普及によって,「声」は量産されるようになった。生成AIの登場はその傾向をさらに加速させており,もはや〈声を持つこと〉自体には希少性がない。むしろ,「どう目立つか」「どう消費されるか」が重視される中で,声は人格や経験から切り離され,匿名の〈発言〉として市場化されている。このような構造の中では,声を上げることによる報酬(影響力,収益)と,引き換えに発生する罰(中傷,晒し,職場や家族への波及)とが,常に天秤にかけられている。つまり,「声」は交換可能性を持った「商品」であり,社会的制裁はその代償である。
声は何を動かすのか
もはや声は,直接的に社会を変える力を持ちにくい。炎上を避けるために,人々は〈シラフ〉では声を上げにくくなっている。それでも声を発する人がいるとすれば,それはある種の「酩酊状態」(感情の高ぶり,連帯の幻想,あるいは希望への賭け)の中でのみ可能なのかもしれない。現代における「声」の価値は,「抗議」や「主張」ではなく,「つながり」の媒介として見直されている。自己主張ではなく,「あなたとつながりたい」「私をわかってほしい」という声。インフルエンサーとは,その〈つながりの声〉を構築できる者である。
アドボカシーという希望
そのような過酷な状況の中で,なおも声を上げる方法はあるのだろうか。その一つが「アドボカシー」である。声を直接上げることが危険であるなら,代わりに代弁する人が必要になる。当事者に代わって,社会に,制度に,優しく,しかし力強く働きかける存在。そのアドボカシーを,安全に,かつ意味をもって行える手段が「アカデミア」である。アカデミズムは,声にエビデンスを与え,時間をかけて正当性を確保する。アクティビズムは,声を速く,大きく,直接的に届ける。両者のトレードオフを理解しつつ,ふたつの方法をつなぐ中間者が求められている。
おわりに
声を上げることは,かつてよりも簡単になったが,かつてよりもリスクが増している。声は市場で消費され,制裁と隣り合わせで存在している。それでも,誰かが「わたしは困っている」と伝えたいとき,その声が届く仕組みは必要である。今後は,声の意味を問い直し,誰かの声を代わりに届ける「アドボカシー」の重要性がさらに増すだろう。筆者自身もまた,当事者として声を上げにくい人々(たとえば,セクシュアル・マイノリティ,学びの周縁にいる若者たち)の声を,アカデミアという場で代弁していきたいと願っている。